めもちょう

多分三日坊主

アイドルに対する「プロデューサー」という視点について

アイドルものの作品における(今回はアイドルマスターあんさんぶるスターズ!(!!))

  • 「アイドル」に対する「プロデューサー」という存在の是非
  • 「プロデューサー」と「ファン」の違い
  • 「プロデューサー」は傍観者であるべきなのか?
  • 自己投影・自己の介入について

上記の項目に関する私の見解を述べた記事です。

 


きっかけはあんスタの「#秒でわかるあんスタ」というタグでのプレイヤーたるプロデューサーへの扱い(傍観者、壁、空気)をネタとして消費する空気感に何となくモヤっとしてしまい、「それでは私の理想はどうだろう?」と今まで感じてきたことの整理として書いています。

あんスタきっかけの本記事ですが、アイマス寄りの話かと思います。

恋愛の話ではなく、単なるプロデューサーとアイドルの物語上の役割について個人的な理想の話を今回は触れています。

「ぼくの考えたさいきょうのプロデューサー像」なので、現状作中でどのように描かれているか?というのは今回の論点ではないです。

 


自己整理が目的のほとんどなので、内容に共感できない人がいることも尊重します。

共感してくれる人だけ共感してくれればいいな、という傲慢な自己顕示欲のもとに公開しているので、もし反論されても特に私からの答えはないです。あなたはそう思うんだね〜なるほどね〜ってだけです。

読みにくくて長いよ!

 

 

 

プロデューサーとファンの違い

私は主人公(=プロデューサー)視点で見るアイドルという人間(キャラクター)が好きなのであって、ファン視点でのアイドルを好んでいるわけじゃないんだなぁという話

 


「アイドル」という手段を選んだ、もしくは「アイドル」に魅せられてそれを志したキャラクターをプロデューサーたる「俺」であり「転校生の私」が、「アイドル」として輝かせたいというのが私の欲求なので、「プロデューサー」という視点は必要だと強く思うし、それこそ「アイドル」に関わる理由なんだよな

 


菊地真についてもよく『「かっこいい真」を求めるのが”ファン”で、彼女の目標である「かわいいアイドル」にしてあげるのが”プロデューサー”』という風潮があるが、私はそう思わないんだよな(別に声優さんの持論を否定しているわけではないので悪しからず、私はそう思わないだけ)

プロデュース戦略として「かっこよさ」を主軸に売るということは、作中のプロデューサーだって行っている手法であり、否定されるべきではないと思う

「アイドル 菊地真をこう売りたい!」と私たちプロデューサーが思えば、それはプロデュース方針になるわけで、それを決めるのは私たち一人一人なんですよ

 


(アイマスの作中では「1人目のファン=プロデューサー」という前提があるのは置いておいて)

ファンとプロデューサーという存在を分けるのは「方向性」ではなく、「自身の意志を介在させた上でそのアイドルをプロデュースしたいか?」という点だと私は思う

ステージに立つアイドルを観客視点でひたすら愛でたいのであれば「ファン」なんだろうし、「俺」の視点を借りてアイドルと交流し、(売り方は人の数ほどあれ)キャラクターを「アイドル」にしたい!と思えるのが「プロデューサー」なんですよ

別に「カッコいい菊地真を好きな自分」を否定する必要はないし、「カッコいい菊地真のこのポイントを全人類に示したい」というのも立派なプロデュース方針でその時点でその人は「菊地真のプロデューサー」だよ

そもそも「かっこいい」と「かわいい」が二元論的かつ二者択一的に語られることがナンセンスなんですけど、これを語り始めると長くなるので割愛

 

 

 

プロデューサーとファンとアイドルという関わり

以上の主張からも分かるように、「プロデューサーは傍観者であるべきか?」という命題に対しては私の見解はNoですね

作中における一個人の「アイドル」との交流相手として、「①主人公たる(≒プレイヤー)プロデューサー」「②アイドル」「③ファン」辺りが定番として挙げられると思いますが、「プロデューサー」と「アイドル」は両方必要不可欠じゃないですか?

(ファンとの絡みも見られたら見たいよね)

 


最近の主流はアイドル同士の絡みが特に強く求められている印象がありますが(根拠はない)

強烈な個性を持つアイドルというキャラクターとの絡みでは「二者間の関係性・感情のやりとり」だけが掘り下げられるわけで、「アイドル個人」の掘り下げという切り口だと視点が偏ってしまうんですよね

だからこそ、「アイドル」ではない存在としてのプロデューサーが「アイドル個人」にスポットを当て、内面を掘り下げる存在として必要だと思うし、それによってアイドルとの絡みとは別の視点が提示できるのはキャラクターへの理解に大きく意味があると思うんですよ

「プロデューサーから見たアイドル」「同僚アイドルから見たアイドル」「ファンから見たアイドル」同じキャラでもそれぞれ違う側面が見えるから面白いわけで、物語に触れた私たちが多角的にキャラクターへの理解を深めた上でその人物像を作り上げていけるところが良いところだと思うんだよな

必ずしも「特定の一個人のみから見た一人のアイドル」という視点が正解とは限らないと思うので…

 


だからこそ「プロデューサーがいないシナリオ」も幾らかはあってもいいと思うけど、「主人公たるプロデューサーが不要じゃね?」という話になってしまったら、プロデューサーたる「俺」であり「私」の存在意義が失われてしまうので、あまり良いことだとは思えないですね

アイドルはプロデューサーに依存しろ、と言いたいわけではなく、プロデューサーにも役割があってほしいし、物語で機能するべき存在…アイドルに影響を与えられる存在でいたいよってことですね

 


プロデューサー、どんどん良質なシナリオに絡んでいってほし〜〜〜

 


あと、「アイドル同士のクソデカ感情」と「アイドルとプロデューサー間のクソデカ感情」だって両立可能じゃないですか?

視点主によって一人のアイドルの見え方が変化するのと同じように、対象やベクトルが変わることで感情の量が同程度でも、異なる感情として捉えることは可能だよなぁというのはいつも感じる

AというキャラクターがBというキャラクターにお互い特別な思いを持っている事実だけで、AとCという別のキャラクター同士の感情のやりとりが否定されるわけじゃないような気がするんだよな

だから別にアイドル同士のクソデカ感情もアイドルとプロデューサー間のクソデカ感情も両立するわけですよ

 


自己投影と没入とロールプレイ

まぁ私も完全に作中のプロデューサーと自分をリンクさせているわけではない(作中Pの動きで許せないものもある)し、「くっちゃねP」というロールプレイとしての自分と、作中の「俺/私」の双方を切り替えて上記の前提を語っているので、支離滅裂な所もあるんですが…

だからこそキャラクターとしての作中プロデューサー、投影先としてのプロデューサー、ロールプレイとしてのプロデューサーと自己の置き場を使い分けて納得させているみたいなところはあるかもしれないですね

 

もちろん人によってプロデューサーのロールプレイも、主人公たるプロデューサーへの感情を移入もしたくないから、プロデューサーという存在が不要だ!ファンでいたい!という方もいるんでしょうけどね!わたしはこう、という話です

 

 


結論としては作中にもプロデューサーはいてほしいし、シナリオで存在感を発揮してほしいし、私自身はファンじゃなくてプロデューサーとしてアイドルに接していたいよ!という話でした

 


舞台裏もステージ上も、アイドルじゃない一人の人間としてのキャラクターも見られるからプロデューサーという視点が好きだし、「普通の人」を「アイドル」にするという過程と橋渡しを担うプロデューサーの役割が大好きなんですよ………